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元旦の朝、僕は

2010/01/03 11:33

 

3日になったら、新聞が配達されてきました。
うん。ちょっとね。それより産経新聞1月1日の正論欄。
新保祐司氏の文が印象に残ります。
はじめの方に、
「後世から振り返れば、今日の大方の日本人が思っているよりもはるかに深刻な『国難』の中にある現政権下の日本の行末を憂える・・・」
真ん中を端折って最後は

「小林秀雄は『戦争と平和』と題した戦時中の文章の中で、トルストイが『戦争と平和』を執筆したときに、その剛毅な心が洞察したことは、戦争と平和とは同じものだ、という恐ろしい思想ではなかったか、と書いた。『戦争と平和とは同じものである』ならば、今日の一見、『平和』に見える日本も実は、底流において一種の『戦争』の中にあるのである。『国民』たる者の一人一人が、それぞれの仕事の場において、日本が日本である精神的価値を守るために戦わなくてはならない。吉田松陰は死を前にした書簡の中で『くれぐれも人を哀しまんよりは、自ら勤むること肝要に御座候』と書いた。『祖国』の防衛のために、『自ら勤』めなくてはならない。そういう年が、いよいよ始まったのである。」

ところで、
小林秀雄の「戦争と平和」という文が気になりました。
それは

「正月元旦の朝、僕は、帝国海軍真珠湾爆撃の写真が新聞に載っているのを眺めていた。」とはじまっておりました。
その文の最後は

「・・・トルストイが、『戦争と平和』を書いた時に彼の剛毅な心が洞察したぎりぎりのものではなかったか。戦争と平和とは同じものだ、という恐ろしい思想ではなかったか。近代人は、犯罪心理学という様なものを思い付いた伝で、戦争心理学という様な奇妙なものを拵へ上げてしまった。戦は好戦派という様な人間がいるから起こるのではない。人生がもともと戦いだから起るのである。」


平成21年元旦の新聞を開きながら、混迷の行き着く先に、言葉が逆に輝く。その瞬間に立ち会っているのだろう、と思うのでした。

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ベスト1

2009/12/20 15:53

 

産経新聞2009年12月20日の読書欄に、花田紀凱(かずよし)氏の書評が掲載されておりました。とりあげた本は、工藤美代子著「関東大震災『朝鮮人虐殺』の真実」。
そこに「ぼくが今年読んだノンフィクションのベスト1だ。」とある。
う~ん。暮れも押し詰まってくると、今年の「ベスト1」を教えてもらえる楽しみ。
これは、読んでみたい気がします。

外山滋比古著「思考の整理学」を読んでいたら、
ことわざについての文がある。
「学校教育では、どういうものか、ことわざをバカにする。ことわざを使うと、インテリではないように思われることもある。しかし、実生活で苦労している人たちは、ことわざについての関心が大きい。現実の理解、判断の基準として有益だからである。ものを考えるに当たっても、ことわざを援用すると、簡単に処理できる問題もすくなくない。」(p187)

こういう箇所を読むと、次に外山滋比古著「ことわざの論理」を読みたくなったのでした。それを読んでしまうと、つぎに「思考の整理学」に、こんな箇所があったことが思い浮かぶ。

「忘れるときにも、ほかのことをすればいい。ひとつの仕事をしたら、すぐそのあと、まったく別のことをする。それをしばらくしたら、また、新しい問題にかかる。長く同じことを続けていると、疲労が蓄積する。能率が悪くなってくる。ときどき一服してやり、リフレッシュする必要があるのはそのためだ。しかし別種の活動ならば、とくに休憩などしなくても、リフレッシュできる。・・・・
つまらないことはいくらメモしてもいい。そうすれば、安心して早く忘れられる。大切なことは書かないでおく。そして、忘れてはいけない、忘れたら、とり返しがつかないと思っているようにするのである。人間は、文字による記録を覚えて、忘れることがうまくなった。それだけ頭もよくなったはずである。」(p118~121)

という言葉があった。
さて、外山氏の新刊に、そういえば「忘却の整理学」というのが出ております。

まあ、そういうことで、
工藤美代子著「関東大震災『朝鮮人虐殺』の真実」
外山滋比古著「忘却の整理学」
の二冊を、今日ネット注文。

もうすこし追加。

「思考の整理学」に
「スクラップも時がたつとまったく不用のものが出てくる。なんでもすべてとって置くのがいいのではない。あまりたくさんたまると全体の利用価値がさがってしまう。慎重に、ときどきは、整理、つまり、廃棄にまわすものをつくらなくてはならない。ぜい肉をおとしておかないと、動きがとれなくなるのは人体と同じだ。」(p84)

「どうやら、記録したと思う安心が、忘却を促進するらしい」(p92)

「メモやノートをとらなくても、興味のあることはそんなに簡単に忘れるものではない。忘れるのは、関心のないなによりの証拠である。知りたいという気持が強ければ、頭の中のノートへ書き込めば、なかなか消えない。もっと頭を信用してやらなくては、頭がかわいそうだ。・・」(p93)

さて、「忘却の整理学」では、
以上の言葉がどう料理されて一冊となっているのやら。
たとえば、映画では、観る前に、あれこれ想像すると実際に観たときに幻滅することが多々あるのですが、「忘却の整理学」は、はたしてどうか? 楽しみではあります。

ところで、花田氏のベスト1について、その書評のはじまりは
関東大震災の時に流言蜚語に惑わされた日本人自警団が何の罪もない多数の朝鮮人を虐殺した――。多くの日本人はこの事件にある種の後ろめたさを感じ、きちんと検証してみようとしなかった。大震災から86年、工藤さんが始めてこの困難な作業に挑んだ・・・・」
というのでした。
 

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昭和5年生まれ。

2009/11/03 16:11

 

最近読んでいた本で、そういえばと思うのですが
徳岡孝夫
加藤秀俊
開高健
この3人の共通点は、どなたも昭和5年生まれ。

加藤秀俊著「メディアの発生」の序章(p26)に
「わたしはフィールド優先主義の人間である」とあります。
なるほど、この本を読んでいると、そう思えてきます。

いま、ちょっと適切な引用が思い浮かばないのですが、
徳岡孝夫著「『民主主義』を疑え!」のあとがきは
「だいたいジャーナリストになろうと思う人々は、入門書など必要としない。自分の見たもの聞いたことを記憶またはメモしておいて文章にすれば、それが取りも直さずジャーナリズムである。ジャーナルとは、もともと『一日の仕事』またはそれを書き留めた『日誌』の意であり、日誌と同じように書こうという意志さえあれば誰にでも書き始めることができ、何も改まった指導を必要としない。」


開高健著「われらの獲物は、一滴の光り」。その「わたしの母校」(p52~58)は
旧制中学最後の卒業生である昭和5年生まれの、その頃の生活が思い起こされております。

加藤秀俊氏は、この本で、その昭和5年生まれの仲間達の幼年少年時代を回想しながら、本題へとむすびつけている箇所がけっこうあったりします。
ちなみに、加藤氏のこの本に出てくるのですが、
有吉佐和子氏は1931年1月20日生まれ。学年では昭和5年生まれと同期。

このように、
昭和5年というのを私が意識したのは、
渡部昇一・岡崎久彦著「賢者は歴史に学ぶ」(クレスト社)でした。あらためて、その箇所(p50~)を思い返してみます。


【渡部】私も岡崎さんも、昭和5年(1930)の生まれで、もちろん戦争に行かなかったけれども、あの戦争のことはリアルタイムで知っていたという感じがあります。まだほんの小学生でしたが、日米交渉の行方がどうなるかなんて、わがことのように心配しながら毎日、新聞を読んでおりました。だから、戦後になって日本はアジア侵略の戦争をしたんだなどと言われると、『そんな馬鹿な話があるか』とすぐに反応するわけです。アメリカが真綿で首を絞めるようにして、日本の石油輸入を干し上げたから、日本が東南アジアに出ていかざるをえなかったことは、当時の小学生にもよく分かった話です。もちろん、連合艦隊の主要艦船の名称は言うに及ばず、排水量や兵装も覚えていましたし、軍用機の性能だって暗記していた(笑)。考えてみれば、前線の兵隊さんよりもわれわれ小学生のほうが、たしかに戦争全体のことは見えていたでしょうね。
【岡崎】われわれの世代は兵隊教育も受けていないし、戦後も日教組が盛んになる前に大学に通いました。だから、悪く言えば『無教養世代』ということになるんでしょうが、要するに誰も指導してくれなかったから、自分で本を読んで、自分で考えるしかなかった。それがかえってよかったのでしょう。


そう。岡崎久彦氏と渡部昇一氏とは、ともに昭和5年生まれ。
 

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一滴の光り。

2009/11/01 11:38

 

山野博史編「われらの獲物は、一滴の光り 開高健」(KKロングセラーズ)のはじまりは、「マスコミ雑感」という5ページほどの文からでした。はじまりは、

「創作するかたわら、私は《洋酒天国》という、いわゆる《PR雑誌》を編集している。・・この種の日本における趣味雑誌・PR雑誌は、とくにそのうち味覚に関係のあるものは、たいてい鶴屋八幡の《あまカラ》のエピゴーネンである。私はデザイナーの友人といっしょに仕事をはじめるについて、断じてこの《あまカラ臭》を排除する方針をたてた。《あまカラ》の独創性をみとめるのに私はけっしてやぶさかではないが、人のやったあとをまねするほどバカげたことはない。そこで私たちはチャチなエキゾティシズムを動員し、バター臭さとキザを、レイアウトと紙質と印刷を凝ることでカバーすることに方針を定めた。・・・・」

これが、1ページ目にあったわけです。
それ以降を読むのもほどほどにして。というかこの「一滴の光り」に満足して、この本をそうそうに切り上げて。ここに数回繰返されている言葉《あまカラ》へと興味は移るわけです。さいわい高田宏編「『あまカラ』抄」というのが冨山房百科文庫から3巻本として出ております。解題として高田宏氏がその文庫に書いております。

「『あまカラ』という小さな雑誌があった。昭和26年(1951年)八月に創刊されて17年間、毎月20篇前後の食べものエッセーを掲載し、昭和43年(1968年)4月の200号と翌月の続200号で終刊となった。」こう高田宏氏ははじめております。

冨山房百科文庫の3巻は、どう編まれているかも高田氏の編者の自由裁量を語っております。まずは一人一文でとりあげたこと。第一巻は作家篇・二巻目は学者・評論家篇。三巻目は前の2冊でとりあげなかった緒家篇。という仕分け。

その「あまカラ」の一巻目の最初の文を、高田宏氏は幸田文「火」からはじめ、一巻目の最後は司馬遼太郎「粗食」で終わっておりました。途中には開高健の文もあります。
私は最初と最後の文を読んで満腹。もうそれ以外は読む気がおこりませんでした。
じつは、この冨山房百科文庫の三冊は、だいぶ以前に買ってもっておりました。
そのとき、第一巻の解題と幸田文・司馬遼太郎の文を読んでお終いにしていた経緯があります。今度も同じパターン。

こういうのを、辞書読みというのかなあ。とにかくも開いてパッパと読みたいところを読む。辞書全文を読まないように、最初から全文読破を目ざさない。という、自分の本とのつきあいかたの舵とり。
そして、辞書をひらいたら、また本文へともどる。この約束を守っていけば、一冊読めるかもしれませんね。なんせ私は一冊読みとおせない。それが最近やっと(笑)、それでもいいんだと思うようになってきました。新書など、最初から読むと疲れる。後ろから読んだり、途中から読んだりするほうが面白い。もっとも、最初からワクワクしながら読む本もある。それに私は、ヘンに言葉につまずいて、それ以降を読みとおせなくなることがある。そうならば、最初から順番に読むのは、挫折につながるばかり。そういうように、まずは自分にあった読書法を探しております。

 

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どまんなか。

2009/10/29 12:04

 

山野博史編「われらの獲物は、一滴の光り」(kkロングセラーズ)のまえがきは谷沢永一。そして、あとがきは山野博史。そのあとがきのはじまりは

開高健(1930~89)は、夏目漱石の文学に少なからぬ感心を寄せ、『喜劇のなかの悲劇』、『漱石の明暗の全域を』、『読むための漱石』と律義につきあいながら、『吾輩は猫である』と『坊っちゃん』を漱石文学のどまんなかに位置づけ、評価するという独自の漱石理解を示したことで知られる・・・」

う~ん。ここで、私が思い浮かべるのは、
朝日新聞学芸部編「一冊の本 全」(雪華社)にある、大岡昇平氏の一冊。その一冊は『坊っちゃん』。最初からすこし引用を重ねます。

「本のよしあしをきめるには色々基準があろうが、まず再読出来るかどうかというのが、よい本の条件であろう。」こう明治42年東京生まれの大岡昇平氏ははじめております。

「三読四読ということになれば、『愛読書』ということになる。私は若いころからスタンダールをやっていて、『パルムの僧院』を二十遍以上読んでいる。ところで漱石の『坊っちゃん』の方は、多分その倍ぐらい読み返しているのである。」

こうはじまている大岡氏の短文をさらに短く引用するのは気がひけます。けれども、真中を端折って、最後の方は、丁寧に引用しておきましょう。

「・・漱石の後期の作品は、近ごろはあまり読み返さない。作為が目立って、文章をたどるのが、面倒になるのである。処女作『吾輩は猫である』も十遍ぐらい読んでいるので、もし『猫』と『坊っちゃん』を漱石の代表作とする意見があれば、私はそれに賛成である。しかし『猫』は少し人を面白がらせようとして無理をしている。学をひけらかしてキザになっているところがあるが、『坊っちゃん』にはそれがない。これは明治38年の春、『猫』を連載中の間奏曲のように、書かれた。
今日の四百字詰原稿紙に直すと、二百五十枚ぐらいの分量だが、二十日足らずの間に、一気呵成(かせい)に書かれた。漱石は『猫』の好評に気をよくして希望にみちあふれていたのであろう。感興にまかせて書いていて、のびのびとしたいい文章で、ある。といって決して一本調子ではなく、漱石という複雑な人格を反映して、屈折にみちているのだが、作者の即興の潮に乗って、渋滞のかげはない。こういう多彩で流動的な文章を、その後漱石は書かなかった。また後にも先にも、日本人はだれも書かなかった。
読み返すごとに、なにかこれまで気がつかなかった面白さを見つけて、私は笑い直す。この文章の波間にただようのは、なんど繰返してもあきない快楽である。傑作なのである。さきごろ、どこかの読書調査で、たしか『坊っちゃん』が、文芸作品として最高点だったと記憶する。同好の士が多いのはうれしいことである。」


さて、この「一冊の本 全」が単行本として出たのが、昭和42年とあります。この本の中で、開高健はサルトルの「嘔吐」をとりあげておりました。むろん前後するでしょうが、開高氏は大岡氏のこの文を読んでいたにちがいないと私は思うのです。山野博史氏が、独自の漱石理解とする「漱石のどまんなか」と、そう開高氏が書いたのは、大岡昇平氏よりあとだったのかどうか?それはいつ頃の文に掲載されていたのか。その文ははたしてどのようなものだったのか。別に調べようともしないのですが、ちょっと気になったりします。

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加藤秀俊著「メディアの発生」

2009/10/25 22:13

 

10月25日(日曜日)。NHKのど自慢は、ゲストが藤あや子氷川きよし
場所は熊本県。県民の雰囲気がつたわるような和やかさがありました。

今日は、加藤秀俊著「メディアの発生」(中央公論新社)をパラパラと開いておりました。その第二章「宮中のど自慢 『梁塵秘抄』の知識社会」。

そこに
「わたしが『今様』をあつめた『梁塵秘抄』という書物を本気になってよみはじめたのは70歳をすぎてからのことであった。」
とあります。加藤秀俊氏はつづけます。

「『今様』というのは『当世風』ということである。もっとわかりやすくいえば『流行歌』ということである。」
「『梁塵秘抄』にはこれといって明快な『編集方針』があったわけではない。これは後白河があちこちで耳にして、おもしろい、とおもったものをランダムに書き留めたフィールド・ノートとしてみるのがよかろう、とわたしはかんがえるようになってきた。」(p88)

「『口伝集』第十巻によると、かれは『十余歳の時より今に至る迄、今様を好みて怠る事なし』という熱中ぶり。この文章がかかれたのは後白河六十歳のときだから四十年以上にわたる研鑽ということになる。・・・・なんのことはない、現代風にいえばマイクを手ばなすことなくカラオケに熱中し、芸人たちといっしょになって『のど自慢』に明け暮れていたのが後白河という奇抜な帝王だったのである。その『のど自慢』は『歌合』という行事にまで昂揚した。もともと『歌合』というのはその起源は古くは『歌垣』までたどることができるだろうし、また吉凶を占う『年占』の洗練されたものとかんがえてもよい。類似のものを左右にわけて比較対照しながら均衡をとってゆく、といういわばヤジロベエ的なバランス感覚がそこにある。・・・そんな事情があったのだろうか、後白河は独自の『歌合』を承安四(1174)年秋に法住寺で開催してのである。そこでは歌人30名がえらばれ、それが左右にわかれて15日間にわたって歌をきそいあったという。もちろん後白河じしんもそれに参加し、その行事は民衆にも公開されていた。なるほど、いま年中行事として定着した『紅白歌合戦』の原型はこんなところにあったのか、とわたしは感嘆した。」(~p91)


もったいないなあ、この本の題名が分かりづらくしているように思えます。
「メディアの発生」というよりも、「日本歴史」を新しい側面から浮かび上がらせる素敵な歴史書なのです。さまざまな「語り」の歴史を浮かびあがらせる。というか「わたしなどむずかしいことをわかりやすく語ることが学問というものだ、と信じてこれまで生きてきたから」(p402)という加藤秀俊氏の、この本を私はワクワクしながら、まだ読み終わっていないのでした(笑)。

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言葉のふところ。

2009/10/16 11:39

 

相撲で、相手のふところへはいる、と解説されることがあります。う~ん、それじゃ言葉にも、ふところがある。そんな、ふところの豊かさを、教えてくれている「言葉の手帳」一冊。なかなか、相手のふところへ入ることは、おぼつかない日々であります。ついつい、外側で判断しがちなのは、言葉でも同様。そういう、浅薄さを思い知らされる一冊。この本は、新聞の校閲部長が、大阪版産経新聞夕刊に週一回連載コラムをまとめた一冊。これが、言葉の奥行きを語って、シロウトが読むと、まるで国語辞典が、胸襟をひらいて語りかけてでもいるような味わいがあります。コラム一回が見開き2ページの短文。しかし、辞典がそうであるように、簡単な通読には不向きかもしれません。それでもね、一回一回が面白い。面白い。言葉の豊かさに参入しているようなゆったりとした味わいが残ります。

一箇所だけでも、引用させてください。
「橋」(2005年7月)と題したコラム。
「なにわ八百八橋というけれど、大阪の橋の数をズバリ言い当てられる人など、そうはいないはずだ。昭和26年当時は1320あった・・・橋自慢の大阪で生まれ育ったから言うわけではないのだが、ここのところ世間を騒がせている『橋梁談合汚職』によって『橋』のイメージが悪くなったのは残念なことである。」このようにはじまっておりました。

このコラムの中ほどからが読みどころ。校閲部長の腕のみせどころ。
では引用。

「そもそも、『橋』がいかに神聖なものかがまるで分かっていない。宮津の『天橋立』も元は、天のハシ(端)と地のハシ(端)を結ぶハシ(橋)だった。イザナキやイザナミの神々が行き来する浮き橋で、いわば天地の間に立てかけたハシゴ(梯子)である。その浮き橋が横倒しになって現在の橋立の姿となった。神話の世界はまことに壮大にして愉快だ。
昔の日本では、橋を架ける事業は主に僧侶が中心となってやった。橋が神聖なものだったからである。道昭が宇治橋を、行基は山崎橋を造るなど、僧侶と橋の関係は深かった。日本ばかりか西洋でも橋は神聖視され、キリスト教の『教皇』を意味する単語は『橋を架ける人』に由来すると、英語の語源辞典に載っている」

さて、短いコラムの最後は省略。読んでのお楽しみ(笑)。校閲部長の腕前は、ここまででもいかんなく発揮されているように思われます。余談になりますが、ここで、私が思い浮かべるのは、今年あらたに発売された「橋をかける 子供時代の読書の思い出  美智子」(文春文庫特装版 ¥980)でした。言葉のふところの深さを味わうには読書ということが欠かせないわけですが、この美智子皇后さまの語りには、忘れられない読書経験が、丁寧に反芻されながら、語られているのでした。この特装版文庫から引用します。


「今振り返って、私にとり、子供時代の読書とは何だったのでしょう。
何よりも、それは私に楽しみを与えてくれました。そして、その後に来る、青年期の読書のための基礎を作ってくれました。それはある時には私の根っこを与え、ある時には翼をくれました。この根っこと翼は、私が外に、内に、橋をかけ、自分の世界を少しずつ広げて育っていくときに、大きな助けとなってくれました。
読書は私に、悲しみや喜びにつき、思い巡らす機会を与えてくれました。本の中には、さまざまな悲しみが描かれており、私が、自分以外の人がどれほど深くものを感じ、どれだけ多く傷ついているかを気づかされたのは、本を読むことによってでした。
自分とは比較にならぬ多くの苦しみ、悲しみを経ている子供達の存在を思いますと、私は、自分の恵まれ、保護されていた子供時代に、なお悲しみはあったと言うことを控えるべきかもしれません。しかしどのような生にも悲しみはあり、一人一人の子供の涙には、それなりの重さがあります。私が、自分の小さな悲しみの中で、本の中の喜びを見出せたことは恩恵でした。本の中で人生の悲しみを知ることは、自分の人生に幾ばくかの厚みを加え、他者への思いを深めますが、本の中で、過去現在の作家の創作の源となった喜びに触れることは、読む者に生きる喜びを与え、失意の時に生きようとする希望を取り戻させ、再び飛翔する翼をととのえさせます。・・・・最後にもう一つ、本への感謝をこめてつけ加えます。読書は、人生の全てが、決して単純でないことを教えてくれました。私たちは、複雑さに耐えて生きていかなければならないということ。人と人との関係においても。国と国との関係においても。」(p36~38)

ちなみに、この特装版文庫は、「橋をかける」「バーゼルより」と二冊分がまとめられております。文庫の最後に末盛千枝子氏が『文庫版によせて』を書いているおります。
せっかくですので、そのはじまりだけでも


「1998年9月21日朝、インドのニューデリーにおけるIBBY(国際児童図書評議会)世界大会会場で、ビデオによる皇后さまの基調講演が終わったとき、世界の各地から集まった子どもの本に関わる八百人の参加者は、言いようのない感銘を受け、興奮していました。アメリカの友人は『これを聞くためにだけでも、はるばるインドまで来た甲斐があった』と言い、日本大使館が急遽用意してくれた講演の原稿を手に入れ、これが最高のお土産になるとうれしそうに語っていました。」

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読んでくれえ。

2009/09/30 21:52

 

徳岡孝夫著「薄明の淵に落ちて」(新潮社・1991年)を、あちこち前後しながら、読了。ご自身のことを語って「平々凡々たるというより、ジャーナリストとしてあまり成功せず社会的な出世もしなかった私」(p11)とあります。
うん。私は雑誌のコラム「紳士と淑女」の著者が徳岡氏だと分かってから、はじめて徳岡氏の本を読みだしました。一冊一冊が新鮮な味わいがあります。

「健全な視力を持って自発的に入っていった病院を、全盲ではないにしても盲人として出る。・・・・我が家のドアに達するまでに十段の階段がある。かつてはテニス・パンツで駆け上がったその段を、いまは一段ずつ手をつなぎながら這って上がらねばならなかった。勝手知った家の中の椅子、電気スタンド、壁の絵などはぼんやり見えるが、すべて輪郭はにじみ、しかも手前になるにつれてぼやけていた。・・・書斎に入ってデスクの前に腰を下ろす。壁を埋める本の背の題字が、一冊として読めなかった。本棚の本が一斉に『読んでくれえ』と叫んでいた。だが応えてやることはできないのだ。試しに一冊を抜き取って開くと、一ページに何行あるかはぼんやりわかるが、字は一字として読めなかった。・・・長年かかって集め愛してきた蔵書が一切合財読めなくなった打撃は、それほども強烈だった。
その後、眼科の医者が分厚い眼鏡を処方してくれ、ルーペの使い方も覚えたから、ゆっくりとではあるが本や新聞が読めるようになった。だが眼球の動きが鈍いためか、新聞ひとつでさえまるでヨウカンを読むようで、『政府・税調・の・答申の・基本的・考え方・は』と、端から順に少しずつ切って読んでいって、一行が終わるたびに次の行の頭をさがさなければならない。棚線のない新聞記事は、一行をずっと上から下まで読んでしまうので、二つの記事がごっちゃになる。・・・・
このさき何をして・・・あるいは何を書いて生きるか。
・・・・・
現にこうやって書いている原稿は、私にとって職業人になって以来はじめて、メモ【という情報の記録】を見ずに書く原稿である。私は読者を騙しているような後ろめたさを禁じ得ない。」(~p47)

「薄明の底より」という文も、もう一度読み直したい。
第二章「無銘碑」は、7人を取り上げており、どれもジャーナリストとして意外な切り込みで対象を浮だし、さらりと印象深い。その中で、私は「日米下田会議の演出者」として、山本正氏を取り上げている文に注目。
これらも、薄明の中、手探りで書かれた文であると、どなたが思うだろう。その軽快な文章の流れの味わいに、あらてめて驚かされたり。

次に読もうと、徳岡孝夫著「舌づくし」を古本屋へ注文したのでした。

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倚(よ)りそへよ、わがよき人よ。

2009/09/28 11:55

 

暑さがつづきますが、秋ですね。
なんだか、詩でも読みたくなります。
ということで、NHK出版生活人新書の一冊
小池昌代編著「通勤電車でよむ詩集」をめくってみました。
うんうん。普通の詩のアンソロジーではおめにかかれない
はじめて読む詩が、そこには並んでおりました。
こういうのを見ていると、さて、私ならどんな詩を並べるだろうなあ。という気持になってきたりします。

ということで、ちょうど思い浮かんだ詩三篇。


    秋の歌        ルミ・ド・グウルモン

倚(よ)りそへよ、わがよき人よ、倚りそへよ、今し世は秋の時なり
愁(さび)しくも濡(しめ)りがちなる秋の時なり、・・・・

  ・・・・・・・・・

倚りそへよ、わがよき人よ、秋風は激しく叫びてわれ等を叱咤するなり。
小径に沿ひて、風の言葉は鳴り、
茂れる葎(くさむら)のうちに、
山鳩のやさしき羽音はなほきこゆ。
   ・・・・・・・・・・

倚りそへよ、わがよき人よ、さびしき秋は、今し、
冬の腕(かひな)に身を委ねんとしてあり、
されど夏の草なほ生え出でんとし、
咲きいでし芝草の花はやさしく
最期(いまは)の靄に包まれては、
花咲ける蘚(こけ)にも似たり。
倚りそへよ、わがよき人よ、倚りそへよ、今し世は秋の時なり。

・・・・・・・・・・・
  ・・・・・・・・・・・

      ( 堀口大學編訳「月下の一群」講談社文芸文庫より )


堀口大學のこの「月下の一群」は関東大震災の2年後(大正14年)に第一書房より刊行されておりました。現地フランスにて梱包された訳詩集は、ひらくと同時にその場の雰囲気まで匂いひろがるような気分です。それは時代を超えて現代でもほどんど違和感なく、それは、まるで冷凍保存された言葉が、そのままに解凍されて出されたようなみずみずしさえ私には感じさせます。この本の序にはこうあります。

「最近十年間の私の訳詩の稿の中から・・・仏蘭西近代の詩人66家の長短の作品340篇を選んでこの集を作った。最初私はこの集を見本帖と云う表題で世に問うつもりであった。と云う理由(わけ)は、たまたま此集が仏蘭西近代詩の好箇の見本帖であったからである・・・読者の見らるるとおり、私がこの集の訳に用いた日本語の文体には、或は文語体があり、或は口語体があり、硬軟新古、実にあらゆる格調がある。然しそのいずれの場合にあっても、私が希(ねが)ったことは、常に原作のイリュジヨンを最も適切に与え、原作者の気凛を最も直接に伝え得る日本語を選びたいと云う一事であった。・・・・」

これにまつわる有名はエピソードも引用しておきましょう。

「『月下の一群』のあの詩人群の大方は、その頃まだ日本には名さえ知られていなかった。ぼくはその人たちの作品を、名もない詩誌のバックナンバーや、市販には見出せない小部数発行の詩集やを探し集めては、読み耽り、気に入っては翻訳可能の一篇でも見つかるとこおどりして、これに立ち向かった。ヴァレリーもコクトーもぼくは自分で見つけた。」


こうして原作者と同時代・同国で出会った詩を封印したような一冊。
いまでも本をひらけば、煙が立ちのぼるような錯覚をおぼえる一冊。


さて、次にいきましょう。
茨木のり子さんは1926年大阪生まれの詩人。
ここでは、夫・三浦安信氏について、
安信氏は1918年8月28日生まれ、山形県鶴岡市出身。
旧制山形高等学校理科乙類に進まれ、
1945年に大阪帝国大学医学部を卒業。46年には新潟医大の助手。
1949年に学位をとられ、秋に結婚。都下東村山にある結核予防会・保生園の医師に。
1954年に北里研究所の付属病院に。
1961年に蜘蛛膜下出血の大病を患います
岩崎勝海氏によりますと、
「恢復までに大変長い期間を要された。数年たって、久しぶりにお訪ねした時、病の後の、以前とは見違えるほど暗く、そして一段ともの静かになられた安信先輩と遭遇した。のり子さんは看病疲れの気配も見せず、毅然としておられた。それからも私は、ときどきお邪魔して、以前と同じように勝手なおしゃべりを安信さんにきいていただいていたが、安信さんは肝臓癌で1975年5月22日に亡くなられてしまった。57歳であった。」

さて、茨木のり子は2006年2月17日に亡くなります。
そのあとに残された詩篇が「歳月」と題して出版されたのが、2007年2月でした。
その詩集「歳月」に「椅子」という詩がありました。


    椅子   茨木のり子

―――あれが ほしい―――
子供のようにせがまれて
ずいぶん無理して買ったスェーデンの椅子
ようやくめぐりあえた坐りごこちのいい椅子
よろこんだのも束の間
たった三月坐ったきりで
あなたは旅立ってしまった
あわただしく
別の世界へ
―――あの椅子にもあんまり坐らないでしまったな――
病室にそんな切ない言葉を残して

わたしの嘆きを坐らせるためになら
こんな上等の椅子はいらなかったのに
ひとり
ひぐらしを聴いたり
しんしんふりつむ雪の音に
耳かたむけたりしながら
月日は流れ

今のわずかな慰めは
あなたが欲しいというものは
一度も否と言わずにきたこと
そして どこかで
これよりも更にしっくりしたいい椅子を
見つけられたらしい
ということ




詩集「歳月」には、あとがきにかえて「『Y』の箱」という宮崎治氏の文が添えられておりました。そのはじまりは

「『歳月』は、詩人茨木のり子が最愛の夫・三浦安信への想いを綴った詩集である。
伯母は夫に先立たれた1975年以降、31年の長い歳月の間に40篇近い詩を書き溜めていたが、それらの詩は自分が生きている間には公表したくなかったようである。
何故生きている間に新しい詩集として出版しないのか以前尋ねたことがあるが、一種のラブレターのようなものなので、ちょっと照れくさいのだという答えであった。・・・・」


そこで、思い浮かぶのは生前に発表された詩集「倚りかからず」でした。
そこから詩「倚りかからず」を最後に引用。


     倚りかからず    茨木のり子


もはや
できあいの思想には倚りかかりたくない
もはや
できあいの宗教には倚りかかりたくない
もはや
できあいの学問には倚りかかりたくない
もはや
いかなる権威にも倚りかかりたくはない
ながく生きて
心底学んだのはそれぐらい
じぶんの耳目
じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合のことやある
倚りかかるとすれば
それは
椅子の背もたれだけ

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もったいない。

2009/09/27 18:12

 

1994年に単行本になっていた「紳士と淑女 人物クロニクル 1980-1994」を、読まないけれども、パラパラめくってみると、堀口大學氏の写真が載っているページがあり、その箇所を読んでみました。

1981年5月号(81年3月)

「湘南の空が春のうららに晴れていた3月15日、『饗宴にエロスを招く者』堀口大學が葉山の自宅で逝った。89歳。はじめは、西洋の詩人の見本をお目にかけようというわけで『見本帖』の表題が予定されていた大正14年の訳詩集『月下の一群』。ヴェルレーヌ、コクトオ、アポリネールら66人の詩人の340編を新鮮な日本語で紹介した、近代日本文学史の・・・というよりは精神史上の、記念すべき一瞬である。
サンボリズムを移そうと思えば、あの日本語しかなかったのだ。堀口大學の重さは、『社会主義の良心』かは知らないが荒畑寒村などとは比較にならないことを、新聞編集者は知ってほしい。いまの編集局長クラスなら戦後の全訳『悪の華』を読んだだろうに。それとも君らは『空想より科学へ・・・』などに安っぽくカンゲキしていたのか?・・・・」


最初、私は、この堀口大學を追悼した箇所を読んだとき、コリャ誰か、文学に精通している方が、かわって書いたのじゃないか? などと不遜にも思ってしまいました。
ましてや、『月下の一群』を、荒畑寒村や『空想より・・』と比較するという斬新さ。普通はこんな発想はしないよなあ。と思ってしまったのでした。

ところが、徳岡孝夫著「薄明の淵に落ちて」(新潮社)を何げなく開いていたら、
そこに、こんな箇所がありました。

「恩師の故中西信太郎先生は、シェークスピアの深い研究で知られる碩学だった。『シェークスピア物語』のチャールズ・ラムを卒業論文に書いた私は、先生の堅実な御学風を慕って、できれば大学に残るか高校の英語教師になりたかった。ところが某日、研究室に呼ばれた。『きみは体力がありそうだから教師には勿体ない。新聞社に入ったらどうですか。地下【の学生控室】に新聞社の求人が貼ってありましたよ』
私を雑駁なジャーナリズムの道に進めて下さったのは中西先生である。あとで考えると体力があるからとはヘンな理由だが、先生が真面目な顔で言われたものだから当時の私は可笑しいとも思わなかった。私がはじめてフルブライト留学生試験を受けたのは1958年のことで、願書に添えて出す推薦状をお願いに行くと、先生はちょっとバツが悪そうに笑ってから言われた。『きみ、それじゃ僕これから推薦の文章を考えますから、すまないけどちょっと事務室に行って西鉄が勝っているかどうか聞いてきてくれませんか』・・・」(p81)


うん。そういえば私が好きな訳詩で、中西信太郎著「完訳 シェークスピア ソネット集」(英宝社)が、あったことを思い出しました。
略歴を最初から思い出してみれば、氷解したのですが、徳岡孝夫氏は、1930年大阪生れ、53年京都大学文学部卒でした(笑)。

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